西暦1600年、伊達政宗の入城とともに千代から仙臺(仙台)にその名を変え、100万人都市となる今日までその歴史と文化を伝える仙台。
「芭蕉の辻」(約200m)は62万石の仙台城下町の中心にあたり、碁盤の目状に敷かれた町割りの基点。
藩の両替所が設けられ、多くの御用商人が軒を連ねる商業・経済の発信地でした。
西暦1600年、伊達政宗の入城とともに千代から仙臺(仙台)にその名を変え、100万人都市となる今日までその歴史と文化を伝える仙台。
「芭蕉の辻」(約200m)は62万石の仙台城下町の中心にあたり、碁盤の目状に敷かれた町割りの基点。
藩の両替所が設けられ、多くの御用商人が軒を連ねる商業・経済の発信地でした。
仙台城下絵図(寛文4年/1664年)※出典:宮城県図書館HP
芭蕉の辻錦絵※出典:東北歴史博物館HP
明治に入ると、七十七、安田、大同といった金融機関や事業会社が集積していった「国分町」。
対して、老舗呉服屋の藤崎が仙台発の百貨店を開店し、三越が進出した「東一番町」には商店街が広がりはじめ、
次第に映画館(仙集館)寄席(開気館)の設置やアーケード商店街の整備など、都市としての成熟度を高めてきました。
仙台市全図(大正元年/1912年)※出典:有限会社イーピー風の時編集部 仙台市全図より
「芭蕉の辻」道標
国分町通り(約80m/徒歩1分)
藤崎本店(約330m/徒歩5分)
戦後の都市計画によって現地周辺は、青葉通、広瀬通、定禅寺通の東西の幹線と、晩翠通、東二番丁通の南北の幹線が整備されました。
肴町公園を目の前にした現地は、これらの大通りから一本奥まった立地。
北に東北一の歓楽街である「国分町」、東にハイブランドが多数軒を連ねる「東一番町」を控えつつ、
喧騒から外れた落ち着きある住環境を得ています。
周辺エリア概念図
肴町公園(約30m/徒歩1分)
[1]現地周辺(約160m)[2]現地周辺(約160m)[3]現地周辺(約50m)[4]現地周辺(約100m)