江戸時代から武士の家々が並び立つ屋敷街として繁栄した東区。徳川家に繋がる寺院や由緒ある神社・仏閣も多く、その落ち着いた街並みから財界人や文化人の多くが邸を構え、住宅地としての文化を成熟させてきました。本プロジェクトの計画地となる「葵一丁目」は、かつて徳川家の御下屋敷が置かれた安息の地。都心にありながら、心地よく暮らすための穏やかな環境が息づいています。
本プロジェクトが誕生する「東区葵」というアドレスの地名は、徳川家の三つ葉葵の紋に由来します。かつてこの地にあったのは、建宝7年(1679年)に尾張藩2代藩主徳川光友が、休息と饗応の場として築いた約6万4千坪にも及ぶ広大な「御下屋敷」。池を中心とする池泉回遊式庭園は、代々の藩主によって、時代の好みを反映した手が加えられてきました。7代藩主宗春の時代には、8代将軍徳川吉宗から拝領した朝鮮人参などの薬草を栽培する「御薬園」が設けられたというエピソードも残っています。
名古屋城の城下町として古くから発展してきた東区内には、徳川園や建中寺など徳川ゆかりの施設が点在。名古屋城から徳川園へ続く「文化のみち」には、往時の面影を偲ばせる情緒豊かな建物と景観が残されています。時を超えて、歴史と伝統を継承する地として、今もあり続けています。
徳川御三家筆頭である尾張藩2代藩主光友の隠居所で、昭和7年から公園として開園。その後日本庭園としてリニューアルされ、四季折々の美しい花々が訪れる人の目を楽しませています。徳川園に隣接する徳川美術館には、徳川家康の遺品を中心に徳川家代々の遺愛品1万件以上を収蔵。徳川家の旧蔵書などを所蔵する蓬左文庫など、尾張徳川家の重要な文化財が集結しています。
江戸時代を通じて代々の尾張藩主の廟が置かれた、徳川家ゆかりの由緒ある寺院。1651年に第2代尾張藩主徳川光友が、父である第1代藩主徳川義直の菩提を弔うために建立。創建当時は石垣と堀で囲まれ、四万八千坪の境内に多数の堂が立ち並んでいました。
大正末期に建てられた陶磁器商、井元為三郎の旧邸宅を一般公開。約六百坪の敷地に大正浪漫あふれる、洋館、和館、茶室や蔵が残され、当時流行のステンドグラスもあります。現在では、コンサートや演劇などを開催し、文化のみちの歴史・文化を今に伝えています。
日本最初の女優と謳われる川上貞奴と、電力王として名を馳せた福沢桃介が大正時代に暮らした邸宅跡。創建当時、二千坪を超える敷地に建てられた和洋折衷の建物は「二葉御殿」と呼ばれていました。現在では移築復元し、国の文化財に登録されています。
名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建設されたネオ・バロック様式の建物。1989年に名古屋市市政資料館となり、国の重要文化財として保存・公開されています。また、建物内の閲覧室は公文書館となっており、名古屋市を中心とした資料を保存。後世に残す役割を担っています。
江戸時代に尾張藩藩校「明倫堂」(現在の明和高等学校)が置かれた東区は、学びの地として歴史を刻む、名古屋市内でも文教の薫り高いエリアです。県内屈指の進学校として名高い「県立旭丘高等学校」、「東海中学校・高等学校」や「金城学院中学校・高等学校」をはじめ、長い歴史を誇る名門校までレベルの高い学校が数多く点在する東区は、学びの伝統を今に受け継ぎアカデミックな気風を漂わせています。
名古屋の地形は、東部の丘陵地、中央部の洪積台地、北・西・南部の沖積平野の3つに大きく分けられます。「シティタワー葵」が位置するのは、名古屋城周辺から続く洪積台地の一画。名古屋駅などの沖積平野と比べて標高が高く、地震や洪水などの災害を受けにくい安定した地盤とも言われています。また、周囲四方はフラットな地形となっているため、徒歩や自転車での移動も体に負担が少なく快適です。
※掲載の標高は「国土地理院ウェブサイト」の標高地表示機能を基に算出したものです。〔計測地(左から)/【名古屋駅】:名古屋市中村区名駅一丁目、【名古屋城】:名古屋市中区本丸一丁目、【栄駅】:名古屋市中区栄三丁目、【現地】:名古屋市東区葵一丁目〕